久しぶりに船で旅したかった。
スマトラからパプアまでインドネシアの主な港は二十隻あまりのペルニ社の船で結ばれている。
船はすべてドイツ製で全長百五十メートル、総トン数一万五千トン、二千人乗りという大型客船だ。日本などのクルーズ船に匹敵する。
二人部屋の一等船室は日本のビジネスホテルより広く、冷房が効き、お湯のシャワーが出て、テレビは国内放送が五チャンネル見ることができる。NHKやCNNは映らないが、そんなものはいらない。
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テルナテへ向かう大型客船「シナブン号」。ジャカルタのタンジュンプリオク港の岸壁は閑散としていた
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食事はラマダン(断食月)でも朝昼晩レストランで食べることができ、売店やカフェは二十四時間営業だ。ほぼ毎日どこかの港に数時間停泊するので下船して町の観光もできる。
今回の行き先は、インドネシア東部のマルク諸島だ。
一九九九年一月、中心都市アンボンで、レバラン(断食明けの大祭)から始まったキリスト教徒とイスラム教徒との抗争はマルク諸島全域に拡大し、三年以上にわたり殺害や放火が繰り返された。
同じ頃、東ティモールではインドネシアからの独立をめぐる騒乱が続き、約二千人の犠牲者を出した。しかしマルク紛争では死者六千人、避難民五十万以上を数え、被害は東ティモールをはるかに上回っていた。騒乱後独立を勝ち取った東ティモールだが、マルク紛争の先には何もなかった。 和平協定が結ばれたり、衝突が減った後も非常事態宣言が継続され、外部に情報が漏れにくいよう二〇〇二年四月、外国人渡航禁止令が出された。
「危険地帯」のためJICA(国際協力機構)など日本の援助も凍結した。人道援助を続けていたNGO(非政府組織)の活動も大きく後退した。
内外のメディアはマルク紛争を詳しく伝えなかった。NHKや民放局は日本の本社が現地への渡航を禁じ、記者やカメラマンらもそれに従った。そのため惨事が続いているのに、マルクの人たちは国際社会から見捨てられた。
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治安が回復したマルクには明るい笑顔が戻っていた
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二〇〇〇年一月、私は北マルクのテルナテ島の港で取材をしていたとき、隣のハルマヘラ島で殺されたイスラム教徒の復讐戦に向かう「聖戦部隊」に刀を振りかざされた。周辺にいた警官隊は武装集団を遠巻きに見ているだけで、まったく機能していなかった。仕方なく私はテルナテ島を後にした。
そのテルナテ島も今年になり治安が回復し、外国人の渡航が解禁された。島から逃げていたキリスト教徒も戻って来ているという。だから久し振りにそのテルナテ島に行きたかった。そして一年半ぶりにアンボンにも行ってみたかった。
ジャカルタから乗った大型客船シナブン号は、パプア州の州都のジャヤプラまで一週間かけて航海する。途中のテルナテまでは四泊五日、中部ジャワのスマラン、スラウェシ島のマカッサル、バウバウ(ブトン島)、マナド近郊のビトゥンに寄港する。
一等料金は食事付きで八十五万六千五百ルピア。最近は航空各社の競争で運賃が下がり、八十七万一千ルピアとほぼ同額になった。飛行機だと約五時間で飛べるが、私はクルーズ気分の船旅を選んだ。
小松邦康 高松市生まれ。ジャカルタを拠点に各地を旅する紀行作家。じゃかるた新聞にはこれまでマルク、東ティモール、パプア、アチェなどの紀行を連載。著書に「インドネシア二十七州の旅」、「インドネシアの紛争地を行く」(いずれも、めこん刊)など。