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ジャカルタ日本祭り 盛大に閉幕

モナスでフィナーレ / 3万人が「日本」を満喫

【じゃかるた新聞 2009年10月12日月曜日1面】

 国交樹立から51年目を迎えた日本とインドネシアの友好関係促進に向けた試みとして進められてきた第1回ジャカルタ日本祭りの最終日の10月11日、中央ジャカルタの独立記念塔(モナス)広場の南側広場でフィナーレを飾るクロージング・イベントが開かれた。3日から9日間にわたる日本祭りを締めくくるイベントには、ジャカルタ市民など3万人が来場。日系企業や日本食レストラン・スーパーなどの出店、伝統文化のステージ、神輿や盆踊りが披露され、昼から夜まで多くの市民でにぎわった。

モナスの下で日本祭りのフィナーレを飾った盆踊り
 ジャカルタ日本祭りは、昨年に国交樹立50周年を迎えた日本とインドネシアが、多分野で開いた交流行事を継続させ、両国の関係を一層発展させていこうと企画された。塩尻孝二郎・駐インドネシア日本大使の呼び掛けで、インドネシア経験が豊富な在留邦人らが集まり、「新しい日イ交流の在り方」に向けた意見交換から生まれた初の試みだ。
 在留邦人有志による実行委員会を設立し、実行委員長に東レインドネシア顧問の黒田憲一さんが就任。今月3日から11日までの9日間を祭りの期間と定め、市民参加型の交流行事を募ってきた。
 11日の閉幕イベントは、モナスで行うことを4月末に決定。実質的に5カ月を切る短い期間の中、実行委メンバーやボランティアがそれぞれの仕事のかたわら準備を進めてきた。
 閉幕イベントでは、さまざまな場面で両国の約三百人近くのボランティアが大活躍。在留邦人の有志のほか、インドネシア側からはインドネシア大、ダルマ・プルサダ大、ナショナル大の学生らが、入場者の整理やステージのスケジュール管理、ごみ分別の呼び掛け、パダン沖地震の被災者向け募金などで会場を駆け回った。
 会場内では、金魚すくいや餅つきなど、日本の祭りや縁日の雰囲気を伝える行事に多くのインドネシア人来場者の関心が集まった。コスプレをしたインドネシア人の若者も多く、記念撮影を求める市民の姿が至るところで見られた。
 メインステージでは、大江戸助六太鼓やジャックフルートアンサンブル、よさこいソーランや沖縄エイサー、ギャラクシー、シング・アウト・アジアの公演が行われ、ステージ前で座って鑑賞する人たちの周りに、立ち見の観客で何重もの人垣ができた。
両国の男女が神輿を担ぎ、会場を練り歩いた
 神輿が始まると、両国の市民がカメラや携帯電話を片手に神輿の列の周辺に押し寄せ、大にぎわいとなった。夜には、ジャカルタ州のファウジ・ボウォ知事も会場を訪れ、塩尻大使、黒田実行委員長らと一緒になって神輿を担いだ。
 祭りの盛り上がりが最高潮を迎えたのは盆踊り。日本から駆け付けた炎太鼓の公演の後、両国の市民が輪になって踊り、一層の親善を誓い合った。
 クロージング・イベントでは、ジャカルタ特別州政府がインドネシアの象徴であるモナスの広場の提供を快諾。外国が絡む行事としては、異例の了解が得られた。閉幕式でファウジ知事は「みなさん大成功おめでとう」と日本語であいさつした後、「イ日の友好関係がこれまで長く続いてきたことから、今回のイベントにもできるだけ多くの人が参加すべきだと思い、インドネシアにとって特別なこの場所をお貸しすることにした。また、実行委員長の黒田さんはモナスを汚すことはしないと約束してくれ、その通りにきれい使ってもらったことに感謝したい。日本人のこの態度から、われわれも環境保護や人々の心、街並み、国を美化していく方法を学びたい」と説明した。
 塩尻大使は「日本はインドネシアの真の友人。今後、西スマトラの復興を全力で支援していきたい」と西スマトラ州パダン沖地震の犠牲者に追悼を捧げた後、「日イのコラボレーションとなった祭りでは、やりたいことは必ずできると証明してくれた。また来年、祭りで会いましょう」とインドネシア語であいさつ。継続的に祭りを実施することで両国の絆をより一層強めることになると訴えた。

日イ市民が一つの輪に / オールジャパンで支える

(じゃかるた新聞 2009年10月13日火曜日1面)


 独立記念塔(モナス)広場の芝生は10月11日、延べ3万人のジャカルタ市民と邦人で埋まった。紅白の日イ国旗と提灯の列、「餅つき大会」の看板、燃える炎を描いた「祭り」の幟(のぼり)がまぶしいほど輝いて見えた。(じゃかるた新聞編集長、草野靖夫)

 ミニサッカー、囲碁大会、写真展や絵画展からおみこし、盆踊りまで出し物は盛りだくさん。東京・原宿が源流のコスプレ集団。焼きそばや大型テレビなど約四十の店も大忙し。インドネシアの若者が演じた大江戸助六太鼓や沖縄芸能のエイサー、よさこいソーランは、「第一回ジャカルタ日本祭り」を最高潮に盛り上げた。日本の文化の真髄に迫ろうと試みる若者たちに、感謝したい気持ちだ。
 カウンターパートのジャカルタ特別州政府はもちろん、日本大使館、ジャパンクラブ、祭りの会、日系企業、それぞれの文化グループや個人が、会場の設営から進行、警備、清掃までオールジャパン体制で引き受け、ボランティア精神を発揮して祭りを支えた。
 独立記念塔に明かりが灯ると、太鼓の音がタムリン通りのはるかかなたまで響き渡った。記念塔をバックに盆踊りが始まり、ジャカルタ市民と邦人が一体となった踊りが、かつてなく大きな輪となって広がった。
 ジャカルタの邦人による盆踊り大会は、長い間、日系企業の従業員の子弟などの娯楽として実施され、原則としてインドネシア市民には開放されていなかった。過去半世紀、日イ友好のイベントが数多く行われてきたが、インドネシア側の政変やテロ事件など治安上の理由で、どこか閉鎖的な空気があった。
 しかし、今回の日本祭りは違った。参加した誰もが、のびのびと日本祭りを楽しんだ。ジャカルタで40年近く活動する実行委員長の黒田憲一さんは「こんなに多くのジャカルタ市民が集まり、これほど友好的にイベントを盛り上げたのは初めてだ」と目をうるませた。
 第二次大戦後、米国の占領期を経て日本が国連に復帰し、1958年、賠償問題を解決してインドネシア政府と日本政府が国交を樹立して今年で51年。昨年、国交樹立の記念行事を成功させたオールジャパンの協力体制が、今後、毎年1回、ジャカルタで開くことになる日本祭りを大成功に導いたのだ。
 その輪を大きく広げることができたのは、独立広場を管理するジャカルタ特別州のおかげだ。独立広場は、長い間、聖域に近い存在だった。国民の独立意識を高めるため、独立の父・スカルノ大統領が建設し、十数万人の市民を動員し、独立を脅かす勢力を非難する演説を繰り返し行ってきた政治的な場所だ。
 その歴史的な公園で、日イ友好の象徴的な行事を共同で実施できないかとという、塩尻孝二郎大使の提案を気持ちよく聞き入れてくれたのはジャカルタ特別州のファウジ・ボウォ知事だった。
 11日の閉会式で、ファウジ知事は「インドネシアと日本の友好は長く続いてきた。そのことを考え、できるだけ多くの人に参加してもらいたいと思い、インドネシアにとって特別な場所をお貸しした」と語った。
 この前日、松山市から駆け付けた愛媛・インドネシア友好協会と日本さくら交流協会の使節団(経済同友会や愛媛大の柳澤康信学長ら55人)が記者会見し、さくらの苗木300本をプンチャック峠のチボダス公園に寄贈した。日本祭りの提案者である塩尻大使は「インドネシア各地に、インドネシアの風土にあった日本のさくらを満開に咲かせてください」と感謝の言葉を述べた。
 日本祭りは、塩尻大使が米国公使だった当時の熱い思い出から始まった。米連邦議会前のポトマック河畔で、毎年四月、米国市民と日系人のボランティアが「さくらまつり」を開く。明治の末期、議会政治の父・尾崎行雄が贈った苗木が育ち、日米友好のシンボルになった。
 「インドネシアにも市民の間に根付いた日本祭りができないだろうか」と考えたのがきっかけだ。5年前からおみこし大会を開いていた「祭りの会」のベテランたちも参加して「日イ両国が共同で行う草の根レベルの文化交流」「ボランティア精神に基づく自発型イベント」「毎年恒例の名物行事に育てる」の3つの方針が固まり、日イ交流史上で初の本格的な日本祭りが実現した。
 1964年、東京オリンピックの閉会式で、東京・代々木の国立競技場を埋めた世界の若者たちが、走り、跳び上がり、肩車をしながら日本の若者と交流した時の感動を思い出した。それは日本社会が世界へ開放に向けて動き出した瞬間だった。
 やがては、インドネシア各地で活躍する邦人や、あらゆる階層のインドネシア市民にも参加してもらい、この交流が末永く続くよう祈りたい。
迫力の歌で盛り上げた邦人とアジア各国のアーティストの「シングアウトアジア」。最後はインドネシア人の「うーまくエイサー」も加わり、アジアの音楽で会場に一体感を生んだ
夢中でボールを追い掛ける日イの少年たち
両国の男女が神輿を担ぎ、会場を練り歩いた
伝統的な遊具に興味津々の来場者たち
写真展で各賞を受賞したジャカルタ写真部のメンバーと審査