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2003年3月18日 じゃかるた新聞掲載

スラバヤを歩く(下)

歴史刻む交易の街
 日系企業を中核に 活気付くビジネス
 市内北端のタンジュン・ペラック港。はるかカリマンタン島や東部インドネシアの島々から到着した大型客船が、大量の人を吐き出しては吸い込み、汽笛を響かせながら出航していく。接岸している船は、どれも年期の入った古いものばかりだ。
 その中の一隻、「タンジュン・プルカサ」号はその昔、「九州丸」という日本の海で活躍した客船だった。
 今では、スラバヤから東カリマンタン州ヌヌカン県の港へ向けて月二回、日常雑貨品を輸送する貨物船として使われている。甲板から溢れんばかりの積み荷の中には、インドネシア式の便器も含まれていた。

■日本の古船が活躍

 「日本で使えなくなった船が、ここでは第一線級の貨物船として蘇る」−ひげ面の船長、ルスタヌ・フェインディさん(五二)が豪快に笑う。その日の晩に出航するという父への別れを惜しみ、船長の息子のファジャール君(二〇)と、娘のリサさん(一四)が船長室に遊びに来ていた。
ベトナム人船員のマチャナムさん
ベトナム人船員のマチャナムさん
「タンジュン・プルカサ」号の船長と子どもたち
「タンジュン・プルカサ」号の船長と子どもたち
 「将来の夢?僕は生まれも育ちもこの港町。父の跡を次いで船乗りになることしか考えてないよ」とファジャール君。
 タンジュン・ペラック港はまた、海外通商の拠点でもある。ベトナム船籍の「ハナム」号は、インドネシアへの輸出品、ベトナム米の積み下ろしをしていた。
 ベトナム人船員のマチャナムさん(五二)。英語もインドネシア語も通じない。ただ黙々と岸壁から釣り糸を垂らし、にぎやかに積み降ろし作業を行うインドネシア人の働き振りを眺めていた。

■日本企業の戦略拠点

 東部ジャワの拠点都市であるスラバヤは、資源の宝庫であるパプア、カリマンタン、スラウェシ、マルク、ヌサトゥンガラなど東部インドネシア諸島を結ぶ経済の中心地で、オランダ統治時代から、日本企業にとっても重要な戦略拠点だった。
 「トコ・ジャパン」の歴史に見られるように、スラバヤと日本企業の関係は深い。スラバヤと近郊に住む日本人は現在、約六百人。東部ジャワ・ジャパンクラブの法人会員も五十七社に上る。一九九八年、全土を襲った暴動の後、治安回復とともに日系企業も徐々に戻り始めた。
 スラバヤの中心部から高速道路で一時間。開発総面積約五百ヘクタールの中に、松下電子産業、キングジム、三洋薬品工業など、日系企業約十社が入居する、ピエール(PIER)工業団地を訪れた。

■スラバヤに一本化

 ヤマハの現地法人「ヤマハ・ミュージック・プロダクツ・インドネシア」のスラバヤ工場は一九九八年に操業。フルート、クラリネット、サクソホンなどの木管楽器や教育用器材を製造している。
 「コスト競争力を高める」(島貫亮一管理部長)ため、昨年、埼玉とジャカルタの工場に分散していたソプラノ・リコーダーの生産をスラバヤ工場に一本化、今年から年間で最大四百万本の生産体制を敷く。
 スラバヤの空の玄関口、ジュアンダ国際空港では二〇〇一年末から、日本政府の援助も得て拡張事業が進み、日系企業が工事を請け負っている。国内市場の伸びが好調な自動車産業の部品工場も展開している。
 二〇〇一年の米同時多発テロ事件の余波を受け、撤退した製靴、繊維工場も少なくないが、「全体的には微増傾向にある」(総領事館関係者)。首都ジャカルタよりも割安の土地代や労働賃金が、日本の投資家のみならず海外のビジネスマンの注目を浴びているようだ。

(おわり)


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