テルナテを出港した客船リンジャニ号は翌朝、ブル島のナムレア港一キロの沖合いに停泊した。
港に大型客船が接岸できる岸壁がないので、客や荷物は艀(はしけ)やスピードボートで運ばれてきた。インドネシアにはこのようにまだ設備が整っていない港がたくさんある。
ブル島はスハルト政権時代、著名作家プラムディアらが政治犯として流刑されていた。上陸したかったが、乗降客以外はだめだと断られた。
ナムレアを出て五時間後、アンボンに入港した。
港には日傘を差した出迎えや赤シャツを着たポーターが大勢集まっていた。紛争時、港には小銃を担いだ国軍兵士が目立っていたがその姿はなく、数人の兵士はみな丸腰だった。
豊かな海に囲まれたマルクの島々は、色鮮やかな花が咲き、音楽好きな陽気な人たちが暮らしている。
アンボンは西洋列強が血眼になって求めた香料栽培・貿易の中心地だ。三百五十年にも及んだ植民地時代、オランダ東インド会社(VOC)の本部が置かれ、この地方の富を独占した。
古くから栄えた港町は外来者を優しく受け入れてくれる包容力がある。経済的に豊かでなくても家族や兄弟のように助け合い、明るい声が絶えない。競争社会にはない人懐っこい微笑みが満ちあふれていた。
九九年一月、ささいなけんかが扇動者に煽られ、半年後には宗教間の大暴動に発展し、アンボンの中心部は廃墟と化した。異教徒への不信感が増大し、町がキリスト教地区とイスラム教地区に分断された。
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アンボンで一番きれいなリアン海岸で飲み物を売る少女
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旧東西ベルリンや南北朝鮮のように、それまでは混ざり合っていた家族、親戚、友人らが宗教の違いで分かれて暮らすことを強いられ、会うことが困難になってしまった。
港から延びる通りを五百メートルほど歩くと両地区の境界だ。一年半振りにアンボンに足を踏み入れた私は、そこで人もベチャも車も紛争前のように普通に通過している姿を見た。青い空、緑の山とともに、町には異教徒間の交流が再開し、平和な風景が戻っていた。
「無益な争いはもうこりごりだ」という声をアンボン滞在中、何度も聞いた。
市場には近くの島から運ばれてきた香料、魚、ドリアン、バナナなどが積まれ、キリスト教徒もイスラム教徒も威勢のいい売り子の掛け声を浴びていた。
ジルバブをかぶった子が十字架のネックレスをした少女と手をつないで歩いていた。町のいたるところで破壊された建物の再建工事が始まっていた。
夜はキリスト教地区のイスラム教徒が開く屋台で、おいしいイカン・バカール(焼き魚)を食べた。
「紛争中、住み慣れた土地を見捨てて逃げたくなかった。キリスト教徒の友人もいたからね。そのかいあって、今またここで商売ができる」と、アンボンで八年という太った店主は言った。
異教徒地区をまたいで走ることが可能になったので、私は路線バスに乗ってアンボンで一番きれいなリアン海岸に行ってみた。
白い砂浜とコバルトブルーの海が何キロも続き、極彩色の小さな魚が肉眼で見える。
「日曜日にはアンボンからたくさんの人が海水浴に来るようになりました」と、飲み物を売っている九歳の少女が教えてくれた。
隣のセラム島から着いたフェリーには異教徒が混じり合って乗っていた。
砂浜に腰を下ろし、ボーっと海を眺めていると、イルカがジャンプした。