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2003年5月22日 じゃかるた新聞掲載

改革の熱気どこへ スハルト政権崩壊から5年
 全国で学生小規模デモ 国民の関心低下も

 一九九八年五月二十一日の朝に、スハルト大統領が退陣声明を発表してから五周年に当たる二十一日、全国各地で小規模なデモが行われた。国民が望んでいた汚職撲滅や国軍の政治介入阻止、旧体制の一掃など、民主化時代の新政権に課せられた社会改革は遅々として進まず、国民の失望感は深まる一方だが、首都ジャカルタでは、数十人のデモ隊が、メガワティ大統領とハムザ副大統領の退陣を要求する集会を開いたにとどまった。数万人の学生が国会議事堂を占拠、スハルト大統領の退陣を実現させた五年前の革命的な盛り上がりに比べ、改革に対する国民の関心が大きく低下していることを印象付けた。

国会へ向け、ガトットスブロト通りを行進する学生デモ隊
国会へ向け、ガトットスブロト通りを行進する学生デモ隊
 ジャカルタでは、二十日に一万人規模のデモが行われたこともあり、五十−三百人程度の学生デモ隊が国会、大統領宮殿、法務・人権省、ホテル・インドネシア前ロータリーで小規模のデモを行うにとどまった。
 デモ隊は、「改革は死んだ」などと叫びながらスハルト裁判の再開、汚職者の摘発、ゴルカル党の解散など、いずれも果たせずにいる改革を行うよう要求。改革の象徴として誕生したメガワティ政権は国民の期待を裏切ったとして、大統領の辞任を要求した。
 一方、地方都市では、数千人規模の政権打倒デモが行われた。
 東ジャワ州スラバヤでは、学生や労働者約二千人が州知事庁舎に集結。KKN(汚職・癒着・縁故主義)の撲滅を訴えたほか、大統領は国軍寄りの姿勢を改め、公共料金、生活必需品の値下げなど、国民に向けた政策の実施を求めた。
 中部ジャワ州スマランや西スマトラ州パダンでは、学生デモ隊約五千人が州議会前で、旧体制の一掃を訴えた。
 南スラウェシ州マカッサルでは、同州議会への侵入を試みた学生デモ隊約千人と警官隊が衝突し、五人が逮捕されたほか、リアウ州プカンバルでは、同州議会前の国旗を降ろそうとした学生デモ隊約二百人と警官隊が衝突し、学生十七人が負傷する騒ぎとなった。

スハルト不正蓄財裁判 最高検「再開は困難」

 スハルト政権崩壊後の民主化の流れの中で、当時の学生運動が突き付けた「改革」(レフォルマシ)要求の一つであるスハルト元大統領の不正蓄財裁判について、最高検のアンタサリ・アズハル報道官は二十一日、じゃかるた新聞の取材に対し、「病気のため、スハルト氏を公判に出廷させることができない」と語り、公判再開は困難との見方を示した。
 スハルト元大統領の退陣後、米タイム誌は、一族の蓄財額は百五十億ドル(約一兆八千億円)に上ると報じたが、南ジャカルタ地裁は二○○○年九月、スハルト氏が病気で出廷できないことを理由に公判を打ち切った。
 同氏の不正蓄財裁判をはじめとするスハルト政権下での汚職や人権侵害が追及されていないのは、「いまだ司法が確立されていないことの証明」(政治評論家のアリフ・ブディマン氏)との指摘がある。
 スハルト体制崩壊後の五年間、司法改革には大きな進展がなく、スハルト氏の三男トミーは、殺人罪で禁固十五年の有罪判決を受けたものの裁判は公正さを欠いており、アクバル・タンジュン国会議長に至っては、一・二審の有罪判決後も、議長として居座り続けている。 
 一部でスハルト氏の病状回復が報じられた二〇〇二年六月、最高検の医師団が、同氏の健康診断を実施したが、結果は「言語障害を患っており、会話は依然として困難」。
 アンタサリ報道官は「何度か医師団を組織したが、いずれも『スハルト氏は裁判を受けられる状態ではない』と診断された」と語った。近く、再診断を行う予定はないという。
 スハルト氏は、不正蓄財裁判が打ち切られた後、しばしば服役中のトミーを訪れる以外は、めったに公の場に姿を見せない。
 二十一日午後、中央ジャカルタのチュンダナ通りのスハルト邸を訪れると、訪問者もなくひっそりとしていた。
 地元紙の報道によると、かつて「改革の旗手」を自認したアミン・ライス国民協議会議長は、スハルト後の五年間を振り返り、「政府内での汚職はますますひどくなっている」と憤ってみせた。



2002年5月21日 じゃかるた新聞掲載

改革機運消え去る スハルト政権崩壊から5年
 新保守主義と旧体制への逆行

 スハルト大統領が辞任し、三十二年間にわたる軍事独裁政権が崩壊してから二十一日で五年。KKN(汚職、癒着、縁故主義)追放、国軍の二重機能の廃止、人権尊重などを求める民主化運動の「レフォルマシ」(改革)のスローガンは、デモ隊のシュプレヒコールの中から、ほとんど聞こえなくなった。ハビビ、アブドゥルラフマン、メガワティと三つの政権を経て、インドネシア政治の改革機運が、大きく後退したとの印象は否めない。

20日、ジャカルタで行われたデモで、タムリン通りを埋め尽くしたデモ隊
20日、ジャカルタで行われたデモで、タムリン通りを埋め尽くしたデモ隊
 新インドネシア連合党のシャフリル党首は「改革は死んだ」と語る。知識人の多くは、改革運動は失敗に終わったと見る。
 この五年間で、確かに、言論・報道の自由が大幅に認められ、憲法改正により直接大統領選挙が実現、地方分権化に着手するなど国のあり方に関わる制度改革が進められた。
 しかし、KKNのまん延は相変わらずで、司法改革は足踏み状態。メガワティ政権は、旧体制との関係を断ち切れず、国軍寄りの姿勢を強めている。
 社会学者のイグナス・クレデン氏は、スハルト体制は「開発と安定」をその正統性の根拠にしてきたが、メガワティ政権は「国家統一」というナショナリズムを拠り所にしており、「国民や社会の利益よりも、国家の利益が優先される」との立場を取る。
 こうした姿勢は、例えば、アチェ軍事作戦の再開に見られるように、スハルト政権の中央集権的な支配体制に通じるものを感じさせ、「新たな保守主義の台頭であり、旧体制への逆行」(シャフリル氏)という批判を招いている。
 この五年間で三度にわたる政権交代を経験したが、いまだに国家の方向性を模索する状態が続いており、将来的な展望は明確な形で見えてこない。
 インドネシア科学院(LIPI)のシャムスディン・ハリス研究員は、改革運動の成果について、「脱KKNの政府の実現、法の優位、汚職や人権侵害の公正な裁判といった国民の期待からほど遠いのが現状だ。権力者が代わった以外に、本質的な変化や達成があっただろうか」と否定的な評価を下した。
 スハルト政権崩壊後の民主化運動の中で国民の政治意識は成熟した。期待が大きかった反動もあり、国民の間で、政治不信が高まっており、来年の総選挙では投票率の大幅な低下を心配する声もある。
 「国家が安定し、食べていくことはできた」と、スハルト体制を懐かしむ声も聞かれる。
 ジャカルタで長年、運転手として働くスパンギさんは「結局、だれが大統領になろうと、運転手は運転手のまま。昔は一ドル二千ルピアだったのが、今は一ドル九千ルピア。われわれは、一体、どうやって生活すればいいのか」と、庶民の嘆きを代弁している。

学生がデモ行進 1万人が進まぬ改革に抗議

 スハルト政権崩壊五周年を翌日に控えた二十日、政治・経済・法改革が一向に進んでいないとして、学生評議会(BEM)、イスラム学生統一行動(KAMMI)を中心とした首都圏の学生約一万人が、メガワティ大統領、ハムザ副大統領の辞任を求めるデモ行進を行った。
 デモ隊は午後零時ごろ、サレンバのインドネシア大学を出発。ホテル・インドネシア前ロータリーで、民主化、スハルト一族の裁判継続、一九四五年憲法の改正、法秩序の確立、国軍の二重機能の廃止、地方自治の推進などを要求した。
 学生の演説の途中で、メガワティ支持派のメラ・プティ部隊(BMP)の数百人がバスで乗り付け、エール合戦を繰り広げたが、警官数十人が警備していたため、大きな混乱はなかった。
 その後、デモ隊は、「大統領は改革が停滞した責任を取って即辞任せよ」などと叫びながら、タムリン通りを北上。大統領宮殿前で再び演説した後、最高裁判所前で解散した。

きょう国会入りへ デモ行進続ける200人

 十五日に西ジャワ州バンドンを出発し、国会を目指してデモ行進を行っている学生評議会(BEM)の学生や労働者約二百人は二十日朝、ボゴール市内のパクアン大学を出発した。
 参加者の一人、フェルディさんによると、警察は同日、前日逮捕した九人を釈放したほか、交通の妨げにならないことを条件にデモ行進の継続を許可。これを受け、参加者は、五人一組となって行進を続けた。
 しかし、デモ隊は、ボゴール市内で大統領批判の演説を行ったため、警官隊と再び衝突。参加者十数人が負傷したほか、一人が拘束された。このため、デモ隊はこれ以上の行進は困難とみて、車でデポックに移動。二十一日に再び行進を再開して、国会入りを果たすとしている。



2002年5月14日 じゃかるた新聞掲載

「悲劇乗り越え団結を」 ジャカルタ暴動から5年
 復興した華人街に記念碑

 ジャカルタ市内全土で大規模な放火や略奪、レイプが起き、千二百人以上が死亡した五月暴動から十三日で五年が過ぎた。焼け野原となった中国人街コタの電気街グロドックはすでに再建され、ジャカルタの消費活動の拠点として蘇っている。暴動のターゲットとなった華人の政党が、「二度と悲劇を繰り返さないように」との願いを込め、五月暴動の記念碑の建立計画を進めている。
 華人改革党のリウス・スンクハリスメ党首(四四)は十三日、記念碑について「国民が苦難を乗り越え、再び力を合わせて立ち上がるためのシンボルとしたい」と語った。
 五月暴動の記念碑は「友好の像」と名付けられ、西ジャカルタ・ハヤム・ウルック通りのジャヤカルタ・ホテル前の中央にある緑地帯に建てられる予定。
グロドックに建立される五月暴動記念碑のイラスト
グロドックに建立される五月暴動記念碑のイラスト
 バリ人彫刻家ニョマン・ヌアルタさんが銅と真ちゅうを用いてバンドンで制作した像は、高さ八・五メートル、台座が十四平方メートルで、二人の人間がインドネシアの紋章ガルーダを持ち上げている。
 像はすでに完成しており、台座部分の建設を残すのみ。当初予定した十三日には間に合わなかったが、近くメガワティ大統領を招いて落成式を行うという。
 十三日に建立予定地を訪れると、周辺に「五月暴動記念碑の建設反対」と記された一枚のステッカーが貼られていた。
 反対派は「華人が建てようとしている像は一つの出来事を恒久化するものであり、土着のインドネシア人(プリブミ)に対する恨みを次の世代にまで植え付けることになる」としている。 
 リウス党首は「われわれの真意を理解していない人がまだいるということだ。記念碑は、単に流血や悲劇の記録ではなく、民族を超えた国民的な結束を呼び掛けるものだ」と強調した。
 グロドックの電気街は現在、好調な国内需要を支える一大商業地区。十三日も平常通り営業し、携帯電話やテレビ、音響機器など、日本の秋葉原を思わせる品揃えの店は、大勢の買い物客でにぎわっていた。
 焼け焦げた建物は改装され、スハルト政権下では禁止されていた漢字の看板が至るところに見られ、中国本土からの流入者も増えている。
 中国銀行が四十年ぶりに営業を再開し、中国語メディアも氾濫した。しかし、スハルト政権が続けた華人差別は、社会の底辺にかすかに残されており、地方の反乱に見られる異民族間の対立と並んで、プリブミと華人の国民和解の難しさは依然として指摘されている。
 リウス党首は、五月暴動について「華人には愛国心がないと言われるが、スハルト政権打倒を叫び、命を落とした大学生には華人もいる。われわれは国民和解の実現を望んでいる。そのためにも、暴動の真相をすべて明らかにしようではないか」と語った。




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