ジャカルタ市内全土で大規模な放火や略奪、レイプが起き、千二百人以上が死亡した五月暴動から十三日で五年が過ぎた。焼け野原となった中国人街コタの電気街グロドックはすでに再建され、ジャカルタの消費活動の拠点として蘇っている。暴動のターゲットとなった華人の政党が、「二度と悲劇を繰り返さないように」との願いを込め、五月暴動の記念碑の建立計画を進めている。
華人改革党のリウス・スンクハリスメ党首(四四)は十三日、記念碑について「国民が苦難を乗り越え、再び力を合わせて立ち上がるためのシンボルとしたい」と語った。
五月暴動の記念碑は「友好の像」と名付けられ、西ジャカルタ・ハヤム・ウルック通りのジャヤカルタ・ホテル前の中央にある緑地帯に建てられる予定。
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グロドックに建立される五月暴動記念碑のイラスト
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バリ人彫刻家ニョマン・ヌアルタさんが銅と真ちゅうを用いてバンドンで制作した像は、高さ八・五メートル、台座が十四平方メートルで、二人の人間がインドネシアの紋章ガルーダを持ち上げている。
像はすでに完成しており、台座部分の建設を残すのみ。当初予定した十三日には間に合わなかったが、近くメガワティ大統領を招いて落成式を行うという。
十三日に建立予定地を訪れると、周辺に「五月暴動記念碑の建設反対」と記された一枚のステッカーが貼られていた。
反対派は「華人が建てようとしている像は一つの出来事を恒久化するものであり、土着のインドネシア人(プリブミ)に対する恨みを次の世代にまで植え付けることになる」としている。
リウス党首は「われわれの真意を理解していない人がまだいるということだ。記念碑は、単に流血や悲劇の記録ではなく、民族を超えた国民的な結束を呼び掛けるものだ」と強調した。
グロドックの電気街は現在、好調な国内需要を支える一大商業地区。十三日も平常通り営業し、携帯電話やテレビ、音響機器など、日本の秋葉原を思わせる品揃えの店は、大勢の買い物客でにぎわっていた。
焼け焦げた建物は改装され、スハルト政権下では禁止されていた漢字の看板が至るところに見られ、中国本土からの流入者も増えている。
中国銀行が四十年ぶりに営業を再開し、中国語メディアも氾濫した。しかし、スハルト政権が続けた華人差別は、社会の底辺にかすかに残されており、地方の反乱に見られる異民族間の対立と並んで、プリブミと華人の国民和解の難しさは依然として指摘されている。
リウス党首は、五月暴動について「華人には愛国心がないと言われるが、スハルト政権打倒を叫び、命を落とした大学生には華人もいる。われわれは国民和解の実現を望んでいる。そのためにも、暴動の真相をすべて明らかにしようではないか」と語った。