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2004年9月9日−17日 じゃかるた新聞掲載

バリ島を歩く(7)
 
心震わす竹の魔力
学生らに指示を送るスウェントラさん(左)=ジュンブラナ県サンカラグン村で
学生らに指示を送るスウェントラさん(左)=ジュンブラナ県サンカラグン村で
 竹のガムラン、ジェゴグはバリ島西部のジュンブラナ県ネガラ郡サンカラグン村に伝わる伝統音楽。四音階のシンプルな楽器は、バリの空に圧倒的なほど力強く、複雑な音楽を奏でる。
 このジェゴグ、「竹槍に転用できる」という理由で、第二次大戦後のオランダ植民地政府によって演奏が禁止され、永らく途絶えていた。
 それを三十年以上もたって復活させたのが、「スアール・アグン」を主宰するスウェントラさん(五五)。オランダの博物館などで資料や楽譜を集めたり、妻の和子さんとともに周辺の村々を訪れ、朽ち果てたジェゴグの楽器を修理して回った。
 初めは「警察に捕まるのではないか」と演奏に難色を示していた住民も、自由に演奏できることを知り、次々と楽団を結成。現在はこの地域だけで約五十の楽団を数える。
 今日では、ジェゴグの名は日本や欧米にも知られ、一九九八年のサッカーワールドカップ・フランス大会ではスアール・アグンが公式招待された。
 この日、亜細亜大のガムラン研究会のメンバーが、サンカラグン村のスウェントリさん宅を訪れ、ジェゴグのワークショップに参加。巨大な竹のアンサンブルは、日本の若者の心も震わせていた。

バリ島を歩く(8)
 
日本夢見るパブの青年
満員のパディーズの店内には豪州の国旗も揺れていた=バドゥン県レギャンで
満員のパディーズの店内には豪州の国旗も揺れていた=バドゥン県レギャンで
 バリ島爆弾テロ事件でターゲットになったナイトクラブ「パディーズ」と「サリクラブ」。
 パディーズは昨年八月、事件現場から約五十メートル南と約三百メートル北に相次いで店をオープン、営業を再開した。
 いまでは豪州人を始め、多くの欧米人が店に戻り、毎晩、朝方までテロ前のような賑わいを見せる。
 もちろん警備は厳重。金属探知器を持った十九人のセキュリティーが、常時、店内や付近を巡回する。
 「事件の夜に出勤していた六十四人のスタッフ全員が無事でした。お祈りのおかげです」。事件当時も店長として現場に居合わせたイ・グスティ・ヌルディアダさん(三五)は額に残る傷跡を見せて笑う。
 新しいパディーズの店の二階には大きなヒンドゥーの祭壇がある。毎日のお祈りはヌルディアダさんの欠かせない日課だ。
 「パディーズのようなバーを持つのが夢。近い将来、日本に行って働いて軍資金を貯めたい」と話した。

バリ島を歩く(9)
 
忘れられた悲劇の碑
記念碑を手入れするチャトリさん(左)と夫のヌガパストゥルさん=ブレレン県ティンガティンガ村で
記念碑を手入れするチャトリさん(左)と夫のヌガパストゥルさん=ブレレン県ティンガティンガ村で
 村の共同墓地の一角に、白い柵に囲まれた記念碑があった。「航空機事故で亡くなった方々を悼むために」という文字と、長い間放置されたままの日本のせんべいが見える。
 一九七四年四月二十二日。パンアメリカン(パンナム)航空機がバリ島北部ブレレン県の山中に墜落、百七人の乗客乗員全員が死亡した。この事故で、日本は新婚三組を含む二十九人の最大の犠牲者を出した。
 遺体は、事故現場に最も近いティンガティンガ村に運ばれ、遺族有志が記念碑を建てた。
 しかし、同村はングラライ空港から半日以上もかかり、遺族らが訪れにくいため、パンナム航空(一九九一年に倒産)は事故の翌年、犠牲者を出した各国政府とともにサヌール・パダンガラに記念碑を建立。ティンガティンガ村を訪れる人はほとんどいなくなった。
 事故から今年でちょうど三十年。今ではサヌールの記念碑を訪れる人もほとんどいない。
 「連絡してくれればもっときれいにしたのに」。数輪の小さな花を抱えてやって来たマデ・チャトリさん(五〇)が慌てて記念碑のほこりを払う。墓地の隣に住むチャトリさんは、夫とともに、畑仕事の傍ら、記念碑の「墓守」をしてきた。
 「この村を訪れる人もほとんどいなくなりました。年に一、二回、日本の遺族が来るぐらいです」
 バリを愛した若い夫婦らの冥福を祈り、小さく手を合わせた。

バリ島を歩く(10)
 
「母なる寺」の子供たち
ブサキ寺院の入り口で花びらを売る子供たち=カランガセム県ブサキ村で
ブサキ寺院の入り口で花びらを売る子供たち=カランガセム県ブサキ村で
 聖なる山、アグン山の中腹にあるブサキ寺院は、バリ・ヒンドゥーの総本山。バリ人から「母なる寺院」と崇められ、バリ全土から信者が集まる。 
 ここは大小合わせて二十以上の寺院から成る複合寺院で、毎日、どこかの寺でお祭りや儀式が行われている。
 この日も一角の寺院で、ブレレン県から来た村びと約二百人が、ンガベン(ヒンドゥーの火葬儀式)の後の儀式ムジャルムジャルを行い、故人に最後のお別れをしていた。
 ところで、ブサキ寺院は他の観光地と比べて客引きがしつこいことでもつとに有名。多分に漏れず、ヒンドゥーの正装を着て敷地内に入ったとたん、「ガイドがいないと中に入れない」と脅す自称ガイドやら、「一輪千ルピア」と妙に強気の花売りの子供に囲まれた。
 しかし、客慣れして押しの強い子供たちも、「写真を撮らせて」と言うと、とたんに恥ずかしそうな、嬉しそうな表情。レンズをのぞくと本来の子供らしい、いい笑顔を見せてくれた。

バリ島を歩く(11)
 
活気溢れるジンバラン村
巨大なマグロを5本釣り大漁だったアミルさんら=バドゥン県ジンバラン村で
巨大なマグロを5本釣り大漁だったアミルさんら=バドゥン県ジンバラン村で
 バリ島を扇に例えれば、要(かなめ)に当たるバドゥン半島。その入口に位置するジンバランは、一九九〇年代半ばに開発が始まった新しいリゾート地域だ。夕陽のきれいなビーチには、約三百メートルにわたってシーフードレストランが並び、崖の上には高級ホテルが点在する。
 しかし、ちょっと早起きして漁港に行ってみると、いまでも素朴で活気溢れる「漁村ジンバラン」の風景がある。長い桟橋。カラフルな木造船。だみ声の魚売りのおばあさん。朝陽に照らされ、皆、きらきらと輝いている。
 この日、マカッサルから出稼ぎに来ているアミルさん(三八)の船が、五日ぶりに帰港した。久しぶりの大漁に船員の笑顔も弾む。浜辺も急に活気づき、ホテルの仕入れ人が鋭い眼光を光らせる。
 陸揚げされた魚は市場の計量係が手際よく量り、次々と仕分けていく。アミルさんの釣ったマグロには「六十キロ」の紙片が付けられた。
 「ブギス人は釣りの名人。いま港には百二十人くらいのブギス人がいるよ。東風(こち)の吹く九月ごろまでバリで大物を狙うさ」

(おわり)


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